もしかしたら死を前にした記録のようなものになるのかもしれない
ごく、個人的に現況をを記録しておくだけの記事である。
絵もツイッターもVRCもやらずに一週間近く経過し、ただぼんやりと大して熱中するでもないゲームに時間を捨てる日々が続いている。
ことのきっかけは、きっかけと言うには識域下に押し込まれて見えないだけの、かなり慢性的な話だが、私の精神に巣食う薄くも根深い病理と対決せざるを得ない感じになったからだ。
ここ数年は、何か人生から新しい刺激を受けようと、一年にいくつか何か体験したことのない面白そうだと思うものを積極的に取り込んでいこうとしていた。
もともと悲観的ではないもののニヒリズム的傾向がある私はこれでなんとなく一応命を繋いでおく糸のようなものを手に入れていたわけだ。
しかしそれももう限界を感じだしている。
私は一人で何かに没頭するような世界を好んでいたが、師匠との出会い・すれ違いによって人と繋がっていないと得られない機会・世界のようなものがあり、私はこれまでの人生でそれを何度も何度も逃していたであろうことを痛感してしまった。
私は人と同じ空間にいると徐々に毒を盛られているかのように苦痛が増していき、最後には私が我慢できずに縁を断っていくことを繰り返している。
では、その性向を少しでも矯正を試みてみよう。
そういう目論見も含めてVRCをやり続けていたわけだが、これももう限界を感じている。
結局のところ、コミュニケーションがメインである以上、他人の自慢や依存的な愛着表現等の自意識発露エネルギーの照射を避けて通ることはできない。
私はこれらの感情にすさまじく過敏で、そうゆう人間の性向が最終的に我慢できないし、それで自分を誤魔化しながらバーチャル世界の世渡り術を仮に身に付けたとして、私の精神の何が解決するというのか。
もは私には普通の、ごく当たり前に自我を投げ合うような世界は無理なのだ。
私は、十余年前に人生の大きな苦境に立たされ、その中で自身がいかに精神的に欺瞞を重ねてきて生きていたかに気付き、咽び泣きながらその欺瞞的な自我を徹底的に駆逐しようと誓った。
スピリチュアルなセミナーで瞑想を学び、浅いながらも哲学の本を読み、なんとなく一定の定まった死生観を手に入れることもできた。
だが、その先。自分や世界という殻から逸脱した世界、それはいつまでたってもリアルに私の前には現れてこない。
そして、私が幼少期から親や幾多の人間から刻み込まれた人間への不信感、これはもう呪いと言ってよく、独力で解消することは困難だと感じている。
私はもう、何か、精神的に何か、もう一歩大きなステップを踏まないとどう生きたものか何もわからないのである。
最近興味を持っているのがア〇ワスカ界隈の話だ。
例の茶を飲んで神的な体験、慈悲の世界を見たという報告がいくつもあり、私もそこにこそ答えがあるのではないかと感じだしている。
さらに、その世界を通して何かこの世界ならざる何かを感じ取れるシャーマンの様な能力を持った人間が何人もいるらしいという胡乱な話もある。
アヤワ〇カは件の中心人物が裁判で闘争中のため手を出すのは社会的に危険な状況だが、その彼の知り合いの凄腕のシャーマンがヒーリングなるものをやっているらしい。
どうも単語だけを聴くと信じられないものの、何人もの人が単なる電話のセッションだけで謎の精神の変容を実感しているようだ。
しかも、そのセッションはたかだか1万円で、こちらから渡す個人情報の類もほとんどない。
何人もの人間が徒党を組んで嘘をついているようには思えないし、最悪1万円をドブに捨てる程度ならば痛くもないので、一度このヒーリングを受けてみようかと考えている。
まずいことに、そのヒーリングを行う方が、割と体調が不安定でいつ亡くなられるかもわからないという。
やるならば、急がなければならない。
そして、その施術の際には、私が悩んでいることを伝える必要があり、その一環でこのような文章を垂れ流しているわけだが、本当に、私は私というものが分からない。
もう、そのわからなさも含めて全部ぶちまけようと考えているがどうなるのだろうか。
私が首尾よく施術を受け、さらに首尾よく何かが変わるのか…。
また、精神が変容してしまうのは怖いという自分もいる。
どう転んだとしても、今が自身と向き合う大きな機会であることは間違いなさそうだと感じている。
我に幸あれ。
基礎パン
今日は基礎パンの話をします。
基礎パンとは私が勝手にそう呼んでいるだけで、正しい名前はBASE BREAD(ベースブレッド)といいます。
これはBASE FOODという会社が作ったいわゆる完全栄養食品というやつで、これさえ食べておけば一日に必要な栄養分が補えるという、なんだか怪しく時にはディストピアSFのような趣も漂わせる科学の結晶です。
完全栄養食にもソイレントだとかCOMPとかいろいろな商品が出ていますが、私は今までにそれに手を出したことがありません。なぜならレビューを見ると味が微妙そうであるとか、一食500円と結構高かったりするからです。
そんな中、彗星のように現れた基礎パンですが、こちらは1食390円でかつ、結構おいしいというレビューが見られるのです。
前々から完全食を一度試してみたいと思っていた私は、今こそが好機とばかりにBASE FOOD公式HPにて注文をした…というのが今までの経緯です。
味の方はどうだったでしょうか?
レビューは嘘ではないと思いました。少し特徴的な香りと甘みがありますが、パンとして認識する分には十分な質、むしろ持ち味があるので普通のパンより素のままで食べきれる感があります。
もちろん、パンばかりモシャモシャやっていると口が渇いてくるので水分はあった方がよくて、このときカップスープなんかを添えるとなかなか相性がよろしいです。
オムレツも作ってみました。オムレツは美味しいですが基礎パンが若干パンらしくないのであまりマッチしません。
チーズをのせてみました。これは結構いけます。やや甘みが邪魔ですが、チーズの影響が強く味に変化をもたらすにはなかなか良いと思います。
チョコレートも試してみたいです。甘みとカカオの香りで結構風味に変化をつけられると思うので…。
そうそう、基礎パンはパッケージ裏の栄養表示を見てみると、各成分が必要な摂取量を上回っているアピールをしていてなかなか面白いのですが、実は炭水化物は一日の必要量を割っているんですね。
話題になった糖質制限を意識してのことかはわかりませんが、普段の食生活を省みると炭水化物摂取量は結構多そうな感じがするので良いかもしれません。
この特徴のおかげかわかりませんが、昼食後に襲ってくるだるさや眠気といったもの(私はこれを胃に血液がとられるとよく表現している)が基礎パン食べた後だと緩和されているような感じがするのですね。
本当だとしたら、一日の時間の有効活用という面においてメリットがあるので要調査です。
もう一点いいことがありました。
私は自炊寄り食道楽的な側面と食がめんどくさいという二つの価値観がせめぎあっています。
前者の価値観が優位な時は嬉々として昼食を作って満足しますが、後者が優位になるともう何もしたくありません。
しかし、何もしたくなくても昼食は取らねばという強迫観念があるのです。
それも、中途半端なものではなくある程度しっかり栄養がとれるものを食べねば、という。
ですが、この問題をどうやら基礎パンが解決してくれそうです。
今日の昼食は遅くなったので、基礎パンonチーズとカップスープという朝食みたいな内容で終わらせたのですが、これでも結構満足感があるのです。
どうやら私の場合、食に対する満足感というのは、「美味しいものを食べた」という積極的な満足感と、「栄養補給という義務を終わらせた」という消極的な満足感(苦痛からの解放感という方が近い)の2つが存在していたらしい。
基礎パンは、このうちの後者をねじ伏せます。「完全栄養」という御旗の元に。科学万歳。
今まで、「何か食べなきゃいけないがしかし作るのは面倒くさい」と手近にあったパンだけ食べて、「これだけじゃ駄目だけど今更料理するの面倒くさいし腹も微妙に膨れてしまった」というジレンマに陥りそのことで無意味に時間を浪費した日々が何度もありました。
しかし、究極的に基礎パンを食べればよいという選択肢ができたことでこの問題は解決を見そうです。
基礎パンは、人にもよりますが、食に対する煩わしさを大きく減らしそうです。
普段から食に対して面倒くさいと思うことがある人には、その心理的圧迫感を減らす助けになってくれるかもしれません。
私の感想に過ぎませんが、単に食に対する所要時間だけでなく、食をどうするかで逡巡する時間も減らしてくれそうなので、事前に思っていたよりも効果が大きいのではと考えています。
(むろん、毎日うまいものを食べたり、食事らしい食事をしたい価値観の人にはこの話は当てはまらないと思いますが)
まだ購入してひと月も経ちませんが、雑感でした。
近況
海外展示に出すのをやめる代わりにプロの画家が開いている絵画教室に通うことにした。
正直なところ絵画教室という響きに忌避感は無くはなかったが、技術の引き出しを増やしたいのと、講師のブログを見る限り思想について自分の中で特に衝突する部分がなさそうだということで決断した。
(決断とは言うものの、2ヶ月近く悩んでしまったが…)
とりあえず一度見学に行った感じだが、悪くない。
講師の方針もあるが、なんとなく道楽で絵をやってみましょうという感じではなく、他の生徒の人も方向性は違えど真剣な場だったし、何かしら文化に興味がある人々の集まりだろうという印象はあった。
少なくとも、労働先での個を押し殺し、機械のように淡々と日々を消化していくあの虚無的な精神の有りようとは大違いにふるまえたように思う。
講師と話が合ったのが良かったかもしれない。
偶然にも互いにプログレッシブロックが好きだということで少々盛り上がった。
プログレのことを「閉じた世界で何かを追求して追求して、その果てでついにスパークを起こしたようなエキセントリックさがある」と評していたのが印象的だった。
また、私の絵にもどこかそのようなところを感じるとも。
そういえば、絵の当初の動機はプログレに触発され、創作をただ吸収するだけでなく何かしらの形で世界に創作を還元したいという、そのような感じだった。
今はプログレはそこまで聞いていないし、当時の創作に対する呆れるほど殊勝な気持ちは露ほどもなく、そして動機(果たして明確にあるのかも疑わしい)は完全に変質してしまった。
とはいえ、その精神性みたいなものが私に爪先ほどの何かを残しているのかもしれないと思うとこれは少々感慨深い。
というわけで、しばらくは修練です。
■
前にやった展示の懇親会に行った。
絵描きというか創作家の方というのは作ることが好きだしそれを人に見せたり認めてもらうのが好きなのだなと、よく考えれば当たり前のような話を実感して帰ってきた。
私とはいえば、自分の創作物を衆目に晒すのは相変わらず恐ろしく後ろめたい行為だということを再認識するのだった。
憧れも妬みもなく、彼らはただ眩しい心性だと思う。
キュレーター氏の「自分の趣味で好き勝手作ったものを欲しいという人がいて売れていくってものすごいことなんですよ」という言葉が刺さっている。
展示で私のブツを随分と買ってくれた(ダブルミーニングだ…)ギャラリーの方がいらっしゃったことも聞いた。
展示物として晒すなら体裁を整えることに気を遣うのが良いという話も至極まっとうだった。社会で人間の皮を被って生活を送るのと似ている。(なんとなく、「ハーモニー」のことが頭に浮かぶ。)
このような本来ありがたい言葉を受け取っておいて、それなのに後ろめたさと喜悦がごちゃ混ぜになってしまい、最終的になんだか重いものをひきずるだけなのは、どうしてなのか。
私は私のこのような部分が情けなく、同時に麻薬的な悦びを覚える部分であり、同時にまたどうだっていいと思う。
急に、『私は私を抱えて死んでいく 私は、生涯孤独である』という言葉を思い出し、なんだっけと検索する。ミッションちゃんだった。
作者の方は私とは違う心性でもってこの言葉を残したのかなと思う部分はあるが、それでも私には深いところに突き刺さってくる表現だ。
私はこの先も孤独を飼いならし、時には愛し、時には無視し、そして時にはその深淵を直視して絶対的な解決不能性に胸を締め付けられる思いを味わい続ける(昨日のように)。
今回は、そのための儀式だったと思おう。