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前にやった展示の懇親会に行った。

絵描きというか創作家の方というのは作ることが好きだしそれを人に見せたり認めてもらうのが好きなのだなと、よく考えれば当たり前のような話を実感して帰ってきた。
私とはいえば、自分の創作物を衆目に晒すのは相変わらず恐ろしく後ろめたい行為だということを再認識するのだった。
憧れも妬みもなく、彼らはただ眩しい心性だと思う。

キュレーター氏の「自分の趣味で好き勝手作ったものを欲しいという人がいて売れていくってものすごいことなんですよ」という言葉が刺さっている。
展示で私のブツを随分と買ってくれた(ダブルミーニングだ…)ギャラリーの方がいらっしゃったことも聞いた。
展示物として晒すなら体裁を整えることに気を遣うのが良いという話も至極まっとうだった。社会で人間の皮を被って生活を送るのと似ている。(なんとなく、「ハーモニー」のことが頭に浮かぶ。)

このような本来ありがたい言葉を受け取っておいて、それなのに後ろめたさと喜悦がごちゃ混ぜになってしまい、最終的になんだか重いものをひきずるだけなのは、どうしてなのか。
私は私のこのような部分が情けなく、同時に麻薬的な悦びを覚える部分であり、同時にまたどうだっていいと思う。

急に、『私は私を抱えて死んでいく 私は、生涯孤独である』という言葉を思い出し、なんだっけと検索する。ミッションちゃんだった。
作者の方は私とは違う心性でもってこの言葉を残したのかなと思う部分はあるが、それでも私には深いところに突き刺さってくる表現だ。
私はこの先も孤独を飼いならし、時には愛し、時には無視し、そして時にはその深淵を直視して絶対的な解決不能性に胸を締め付けられる思いを味わい続ける(昨日のように)。
今回は、そのための儀式だったと思おう。